満月の道(宮本輝著 新潮文庫)

b0090887_12561650.jpg松坂熊吾さんが主人公の「流転の海」第7部。文庫本で読み始めているので、第1部を読んだのは、1990年代だと思う。もっとあとだったかもしれないけれど、第2部、少なくとも第3部からは文庫本が新刊で出るのを待って買ってきた。最初に読み始めたのが文庫本だったから、ずっと文庫本で読んでいる。単行本が出ても、文庫本が出るまで我慢する。図書館で借りようと思ったこともあったけど、ぐっとこらえた。
この「満月の道」も、文庫本が出たときに買ったのだけれど、実は、楽しみにしていたという感覚からすっかり遠ざかっていた。この前の三冊は今か今かと待ちに待って、文庫本の広告が出た瞬間に本屋にいっていたから、書店で今月の新刊として横積みにされているのを目にしたときに、目眩がするほど驚いた。
「松坂熊吾を忘れていたとは、どういうこと?」というより、「もう『慈雨の音』からそんなに月日が経ったのか」という思いが強い。当然のことながら、本屋で見つけた瞬間に手にとって購入。ただ、買ってすぐ読むことはしなかった。すぐに読んでしまうのはもったいない。忘れていたのだから、もっともっとじらして読み始めた方がいいのだと自分に言い訳して、去年の秋に買ったにもかかわらず、読み始めたのは今年に入ってから。目の端に文庫本が見えるところにずっと置いておいて、我慢我慢と自分に言い聞かせ、読み始めた。渇きに渇いたのどを潤すような気分で読み始める。
お風呂本でした。
お風呂で本を読むと、途中で眠たくなったり、のぼせたりするので、少しずつしか読めないからたっぷり一カ月かけて楽しめると思っていたのに、さすがにのどが渇きすぎていたのか、湯船に浸かったまま読んでのぼせてきたら湯船の縁に腰かけて読み、冷えてきたらまた浸かって読みということをくり返して、一週間ちょっとで読み終えてしまった。読むのが遅い私としては、異例の速さ。
伸仁が高校生になり、熊吾さんも年をとった。読み始めてからの年月と、登場人物の年のとり方とが重なるのが、いいなあと思う。よけいに彼らと同じ年月を生きてきたという実感がわく。今回特に読み進める速さが速かったのは、私が生まれるころの年代に入ってきて、それまでテレビ画面とか映画とか紙芝居の中での映像だったのが、実像を頭の中に描けるようになったのも大きいのかもしれない。当時の大阪を知っているわけではないし、生まれたばかりのころに見たことが記憶にきっちりと収まっているとは言えないのだけれど、その時分にはわたしはこの世に生きていたのだという思いがあるだけで、俄然物語の色合いが変わってくるのだ。それは本当に不思議なことだと思う。
とても具体的に、昭和30年代後半から40年代前半あたりに自分の身近に起こった出来事を思い返す。関西の話なので、母の実家のある京都の町や京都のうち、祖父母を思い返したり、クラウンとかカローラという車名が出てくると「いつかはクラウン」だったな。と思ったり。
おそらく、私よりも15歳ほど上の伸仁と同年代の人は、もっとリアリティを持ってこの作品といっしょに時代を歩いてきたんだろうなあと、ようやく思う。そう思うと逆に、私よりも若い人たちはこの話を、歴史物語のようにして読んでいくのだろうなあとも思ったりする。私はぎりぎり父母に戦争時代のことを直接聞くことができた年代だし、傷痍軍人が道端で腰を落として物乞いをしているのも見たことがあるから、まだまだその時代の匂いを感じながら読むことができるけれど、若い人たちはそうではなく、本当に映画を見るように、目と耳とだけでしか感じられない世界なのだろうなあと思う。
こんな風な市井に生きるひとりひとりの物語をいくつか残しておくことは大切だ。100年後にこの時代に生きてきた人たちの小さな生活のありさまをきっちりとつたえておくこと。物語を描くということはとても偉大なことだ。どんな一つの命も一つの命として伝えられる。
今の時代に生きるわたしたちの生活のありようもまた、いずれ歴史の中に埋もれてしまう。今のひとりひとりは、そのうちに10年単位で、あるいは「平成時代」という年号単位で、さらには21世紀という世紀単位で、ひょっとしたら、千年単位での括りで語られるようになる。今のわたしたちが、マヤ文明やインカ文明、ネアンデルタール人やホモサピエンスを振り返るのと同じように。

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# by kakakai | 2017-01-31 21:47 | | Trackback | Comments(0)

明けましておめでとうございます。

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明けましておめでとうございます。
今年も無事に明けました。
初日の出がしっかり眺められる晴天の元旦。
新しい一年の始まりの日にふさわしい朝でした。
そして、この朝、私は懐かしい人に出会いました。
中学校時代の大親友。
初詣は熱田神宮と大須観音。
一年の始まりに神様と仏様の両方に祈りを捧げるという日本人らしい二刀流です。
手を合わせて祈るという行為をお日様にもします。
日本人の祈りの根本はお日様への祈りだと私は思っています。
全ての命の源はお日様と地球という大地の恵み。
どんなものにも祈りを捧げることは決して浮気心ではないと思います。
年が明けるだけでこれほどに喜びを表すことのできる国柄というのは有難いことだと思います。
どんな一年が待っているか楽しみにしましょう。
虹の彼方のできごとを深呼吸して待ち構えましょう。
深呼吸してしっかり臨めばどんなことがあっても受けとめることができるはず。
さあ、新しい年が始まりました!
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# by kakakai | 2017-01-01 21:01 | プロフィール | Trackback | Comments(0)

恐るべしインターネット

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あいちトリエンナーレ岡崎会場 ペンタルム・ルミナリウム


今年もあっという間に年の瀬を迎えました。12月10日締め切りの太宰治賞に出す小説をなんとか仕上げようと必死だったものだから、それまでは、年の瀬気分にもクリスマス気分にも全くならず……。何とか10日に100枚書き終えて送ることができ、とりあえず清々しい気分で年は越せそうです。と安心している間に、天皇誕生日も過ぎ、クリスマスも過ぎてしまいました。来年早々の1月29日には社会福祉士資格取得のための国家試験を控えているというのに、その準備はほとんどできていない。11月の終わりに模試があって、その結果が帰ってきたのですが、80点。これでは、合格ラインには届きません。あと一か月、何としても合格するために精進しなければ。と書きつつ、「Watakushiつうしん」を書いているという矛盾。面倒くさい勉強からは何とかして逃れたい、という心情が表れています。何をしていても時間は容赦なく過ぎていくということを最近特に感じています。でも、その時間の過ぎていく中にいる自分は、その瞬間に時間が過ぎているということを現実的な流れとしては感じていない。「今」と書いた「今」はもう「今」じゃないという当たり前の哲学的な思考が、おもしろいと感じるなんていうのは、こんな年になってもまだまだ煩悩から抜け出せないということか。

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あいちトリエンナーレ伏見会場 ベロタクシー


 どんな仕事をしているのかと問われたら、「いろいろ」と答えるしかない。いろんなことを仕事として楽しめるならそれでいいと思えるようにやっとなれたということかもしれません。来年は、外国語学校での日本語教師、知的障害者施設でのグループホーム世話人が定期的な仕事となり(たぶん)、不定期に入る(と信じている)学習教材出版社の問題執筆や校正などで、とりあえずは糊口をしのぐことになります。賃金を得るための仕事だけではなく、いろんな活動とプライベートな時間全てがあって自分の人生が成り立っているということもあるけれど、もう少し収入がないと生活はかなり厳しい状況です。小説なんて書いている場合じゃないかもしれないけれど、今年は小説を書くことで自分と向き合うこともでき、これからもこうやって自分と向き合うことを楽しみたいと思い、だとしたらこういうフリーな状況が私には一番あっているなあとも感じています。小説を書いていて、思わぬ言葉がひょっこり出てきたりするのも、そういう自分の人生がじりじりとあぶり出されているのだと。未来なんていうのは、どんな人にとっても決まっているとは言えないことなのだけれど、明日が当たり前にくると思っている人があまりにも多い世の中で、明日はどうなるか不安を抱えつつ、自分の有り様をじっくりと味わいたいものです。

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あいちトリエンナーレ岡崎会場 石原邸 兵士のプラスチック人形でできているLOVE




 初めて自分自身のパソコンを買ったのはWindows3.1のころで、当時バイトをしていた中京女子大学の大学院の助手だった先生に、これからはインターネットの時代ですよと言われたのを覚えています。研究室で画面を見せられ、それはたぶんアメリカの大学か何かの研究室で造られた衛星画像だったと思うのですが、「これが世界につながっていて、世界中で見られるんですよ、なんせ、World Wide Webなんですから。まだまだ繋がるところは少ないですけど、これからブワーッと拡がりますよ」と。が、私自身はその画面を見ても全然ピンとこず、ただの衛星画像だし、そんなのはテレビでも見られるから大したことないと思っていました。それよりも、見ず知らずの人と知り合いになれて言葉のやりとりができるメールサービスのほうが先駆的だと思っていたし、それより何よりパソコンそのものがドラえもんのポケットだったのです。

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あいちトリエンナーレ岡崎会場 石原邸


 インターネットのWebサービスに積極的に関わるようになったのは、出版社の契約社員になったときで、「yahoo!で検索すれば、何でもわかる」ということを教えてもらい、Windows95を使うようになって、さらにドラえもんのポケットの世界が拡がり、今もつきあっているパートナーさんの影響で、OSをWindowsからAppleに換えたらさらにおもしろくなって、今となっては、私の生活の中でインターネット(WWW)のお世話にならない日は、一日たりとてありません。そして、テレビはニュースすら見なくなってしまいました。
今年の初め、ここ数年連絡を怠っていた、オーストラリアでのホームステイ先の女性の名前をインターネットで検索したら、彼女自身に間違いないという女性が見つかって、連絡を取り合うようになったことは前にも書きましたが、ごく最近、そのときとは逆のパターンで、ホームステイをしていた先の家族からのメッセージに私が気づくということがありました。その家族とは、28年前にオーストラリアを離れて以来、一度も連絡を取っていませんでした。
メッセージの履歴を見ると、最初はお父さんが3年前に私を見つけてくれていたようでした。その後に見たことのない女性からも同じようなメッセージが届いていたのです。「あなたは何年か前に交換教師としてオーストラリアのワンガラッタに滞在し、我が家でホームステイをしていませんでしたか」と。あれこれ想像を巡らし、それが当時4歳だった娘さんだとわかりました。彼女がメッセージをくれたのは、私がアルゼンチンにいたとき。メッセージのことなど忘れているかもしれないと思いつつ、とりあえずお二人それぞれにメッセージの返事を書きました。そしたら、娘さんの方からすぐに返事が返ってきたのです!

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あいちトリエンナーレ 愛知県美術館10F


彼女は32歳になっていて、なんと、当時の私の年齢より4つも年上。結婚してフランスで暮らしていること、お兄さんは東京にいること、ご両親と弟さんはメルボルンにいることなどを教えてくれました。そして、彼女が言うには、当時ワンガラッタという田舎の土地で外国人が自分のうちにやってくるなんてことは、めっちゃ大きなことで、だからよく覚えているのだとのこと。なんだかそれだけで、ワンガラッタにいたかいがあったと思ってしまいました。そして翌日、押し入れから当時のアルバムを引っ張り出し、彼女が映っている写真を探して、その写真をスマホで撮って彼女に送ると、彼女は、着物を着たことをよく覚えている、私の顔も覚えていると返信してくれました。
当時は、ホストファミリーの電話を借りての国際電話は高いから、そんなに簡単にはかけられなかったし、日本の情報だって月に1度事務所から送られてくる新聞の月間要約記事くらいのものだったし、カメラもフィルムのもので、毎月のように現像していたことを思い出し、2年前のアルゼンチンでは、オーストラリアよりもさらに遠いところにいたのにもかかわらず、インターネットを使えばただで電話もかけられ、日本の情報もリアルタイムでわかるようになっていたことに隔世の感があるなあと思ったのですが、今回のできごとでまた改めて月日の流れや歴史や科学や通信技術の発展やなんやかやが一気に駆け巡りました。

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あいちトリエンナーレ 愛知県美術館8F


そして、この彼女とのやりとりがきっかけとなって、彼女のご両親ともつながり、私はオーストラリアの人たちと改めて連絡を取ろうと思い立ち、2年ほどメールを出していなかった別の家族にメールを送ったら、返事が返ってきたりと、2016年という年が終わろうとしているときに1989年がぐわぐわと押し寄せてきました。それも、当時は全く想像もできなかった形で。彼女が私にコンタクトをとろうとしてから2年という時を経て、28年という歳月の隔たりのあと、たった数日という短い時間で、改めてつながり始めたというのが、まったくもって不思議です。恐るべしインターネット。
 あと数日で新しい年が始まるわけですが、なんだかワクワクどきどきがいっぱい待ち受けていそうな予感がします。3月末には1週間だけですが、アルゼンチンに里帰り。そのあとはオーストラリアもあるか? 稼がねば!

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あいちトリエンナーレ 愛知県美術館B1F


年の終わりの最後の最後にノロウィルスに感染。下痢と嘔吐で終始した12月29日でした。そしてSMAP解散がけっこう重かったりする一年の終わり。
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# by kakakai | 2016-12-29 23:57 | Watakushi通信 | Trackback | Comments(0)

《伯母の生き方》

(イルカの写真はツアーを企画された方の撮影、恐竜とのツーショットはパートナー氏撮影)
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三国港漁港にて 夕日




まったく収入がないわけではない、まったくすることがないわけではないという状況で、普通貯金が底をつくまではとりあえず定職に就かなくてもなんとか行けるところまで行こうというコンセプトで始まった4月からの生活ですが、貯金の残高を気にしつつもまだなんとか続けられているのはありがたいことです。そして、こんな私を受け入れてくれる人たちがいる(複数の団体でボランティアをさせてもらっています)のもありがたいことだと思います。旅に出る日もあれば、一日一歩も外に出ずに食事もとらないで過ごす日もあり、かと思えば映画をはしごする日もありという日々の中で、さすがに週に一回、両親のところで御飯を食べさせてもらうときだけは、多少後ろめたい気持ちになります。仕事をやめたとは言ってあるものの、夕食にはまだ早い時間に行くと母は「今日は仕事なかったんか」と必ず聞いてきますから。時に応じて「そうなのよ」と仕事がなかったふりをしたり、「仕事辞めたんだがね」と返したりしていますが。何かのついでにふらりと立ち寄ると、「一人やと気楽でええなあ。それで生活できてるんなら、ええがね」とも言われるので、まあしばらくはこのままでいきそうです。

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能登島のイルカたち 一緒に泳いだ




 仕事をやめた後、一番やりたかったことは「小説」を書くことで、この5か月で、原稿用紙にして、10枚の作品、30枚の作品、50枚の作品を曲がりなりにも書き上げられたことは、収穫だったと感じています。小説教室でいっしょに学んだ友人にだけ、全部読んでもらいました。彼女は私の書く文章を色っぽいと言ってくれ、もっと書いてとおだてられたものだから、これからもガシガシ書いていこうと自分を鼓舞しています。目下の標的は、文学界新人賞(9月末締切)と太宰治賞(12月10日締切)。書くことが楽しめるようになったのと、自分が書き続けている姿を想像することができるようになったので、書けると信じています。作品の中に知的に障がいのある人たちと外国人を登場させて、普通の生活の中に彼らは当たり前に存在しているということを表現していきたいと思っています。そして、もう一つ、前の仕事をやめるときに口実にした「日本語教師」にもいくつか応募して、思いがけず近くの学校で採用していただけることになりました。10月から社会科と聴解で計週6コマを受け持ちます(日本語教師と呼べるかどうかは疑わしいところですが、相手は外国人留学生なので)。そして、社会福祉士の国家試験は来年の1月。まだまだどきどき、わくわくは続きます。

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能登島のイルカたちと一緒に泳ごうともぐったところ




 父方の伯母は大正末年の生まれで、年を尋ねると昭和と同い年だと常々言っています。両親が熱田神宮の境内で商っていたおでん屋を手伝う戦力にならなかった幼少のころ、お正月の3が日は伯母のうちで過ごすのが恒例でした。一宮にいたので、7月には必ず七夕祭りに一泊で誘ってくれ、本を一冊買ってくれたものです。小学校の高学年になると、そういうこともなくなり、しばらく疎遠な時期がありましたが、両親が店をたたんで、市営住宅で暮らすようになっても、お正月には毎年顔を見せ、弟妹の子にお年玉をくれます。
 昭和ヒトケタ世代の両親とは違い、昭和初めのまだきな臭くなる前の日本をかろうじて経験し、青春時代のまっただ中を戦争とともに過ごした世代です。子どものころは、そういう背景などまったく気にすることもなく、女ひとりで暮らす、いわゆるキャリアウーマンのはしりのような伯母を、私は羨ましく眺めたものです。コンピューターが出始めたころに、伯母のうちにはパソコンがあり、黒いモニター画面によくわからないなりに、とかとかをキーボードで打ち込むと、白い文字が浮かびあがり、言われるままにエンターキーを押すと、花火のような画像が出現したりするのを興味深く眺めた記憶があります。そういう伯母を見て、結婚して夫の言いなりになるような生活をするくらいなら、一人で暮らすほうがよほど自分らしく生きることができると思うこともありました。
 定年退職後は、好きな絵を書いたり、エッセイ教室に通って文章を綴ったり、ホームページを開設して写真や絵をアップしたりと、第二の人生を満喫しているようでした。それでも、年を重ねると病もしのびより、ご多分に漏れず、癌の手術を何度か経験し、それ以外にも入院することがあり、ここ数年はお正月に訪れても、「熱田さんのお参りは人がいっぱいだでやめとくわ」と、初詣をしないで帰ることもありました。
 そうして、この6月に突然、「京子ちゃんに、お金を残そうと思っとるんだけど、いいかねえ。そう、たくさんはないよ。ほんとなら、本家(ほんや)のあんたんところのお父さんにあげるところだけど、お父さんも年だでねえ」と電話がありました。私は深く考えることもなくお礼を言い、もらえるものはもらうわねと軽く答えて電話を切ったのですが、それから半月ほどして、今度は「実は老人ホームに入ろうと思っとるんだけど、熱田の近くでいいところ、知らない?」と、電話がかかってきたのです。

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現在の宮の渡し夜景



 伯母は戦争までは、宮の渡しの近くに住んでおり、熱田空襲で焼け出されたあとは、戦後ずっと一宮で生活してきました。一宮での生活のほうがはるかに長いのですが、できたら、熱田の地で最期を迎えたいとの思いがあるのだというのです。
 またまた私は深く考えることもなく、「名古屋市熱田区 老人ホーム」でネット検索して、これならよさそうだと思われたホームをいくつか選んで、資料を請求し、伯母の元に送ってもらうようにしました。それからの約一月半、週に1度の割合で、伯母といっしょにホームの見学に行ったり、伯母の住まいに行ったり、ホームでの生活についての説明を聞きに行ったりと、行動を共にしたので、かなり濃密に伯母と話す時間がありました。

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三国港の朝



 これまでにも、伯母が結婚できなかったのは、戦争があったからだということは、伯母本人からもそれとなく聞いてはいたのだけれど、会うたびに、戦争さえなければと、終戦の年に南方の沖合で亡くなった人のことを繰り返しました。「戦争さえなければねえ。私はあの人と結婚しとったんだわ」と、まだ若いころに、お互いのうちを行き来していたことや、姉弟とのやりとりなどを、心の奥から言葉をしぼり出すように、何度言ってもいい足りないと、その亡くなった人の名前を繰り返して、「あんなにいい人はいなかった、みんながそう言っとったよ、私はあの人のお嫁さんになると決めとったからね、ほんとうにくやしくてたまらない。戦争さえなかったらねえ」と、同じような口調で会うたびに言います。幼いころには、せいぜいが戦争で焼け出された話と、その前の生活とを比べての幸せ探しくらいの話だったのが、いつのころからか、毎年5月に開かれる、観音崎での戦没者船員追悼式に遺族でもないのに毎年参加しているということを聞かされるようになり、年を経て、姪っ子といえども50を過ぎてしまえばわかるだろうと、かの人への思いの丈を打ち明けてもわかってくれるかという境地にいたったのでしょうか。
 定年までずっと働きづめに働いて、この年でも男の人並みに年金がもらえているからねえと、ホームの相談員さんには強気なことを言い、年金と貯金とで、たぶん支払いに困ることはないと言い切って、伯母はこの8月に介護付有料老人ホームに入居しました。独り身の私のことを気にかけ、「結婚するって言っとった人とは、どうなった? 結婚するとかせんとかはいいで、パートナーはいたほうがいいよ」と、タンスとベッドと冷蔵庫だけが残されたアパートの部屋で、ホームとの契約書を取り交わした後、伯母は言いました。
 ご安心あれ。母子に見られることもあるほどにパートナー氏とは仲良くしておりますよ。

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この方がパートナー氏というわけではありません


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# by kakakai | 2016-09-02 10:57 | Watakushi通信 | Trackback | Comments(0)

イタリアンカラマツ8年目

2013年に5年目の記事をあげたあと、一昨年はアルゼンチンに行っていたからあげてなかったし、去年はよくわからないうちに一年が終わっていた。というわけで、アルゼンチンに行っている間に枯らしてしまったのではないかと、ひょっとしたら思われている方もいるかもしれません。ところがどっこい、アルゼンチンに行っている間は、両親のうちに預かってもらっていたので、ちゃんと生き延びていたのです。そして、今でも元気に我が家の玄関に君臨しています。イタリアンカラマツ。8歳になりました。

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さすがに普段はドアの前には置いていませんが。
今朝、少し剪定したところです。枝振りはどうなのか? まあ、それなりに育っているって感じですね。
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# by kakakai | 2016-06-16 09:33 | | Trackback | Comments(0)

《青春18きっぷの旅》

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雨に煙る姫路城



3月いっぱいでフルタイムで働いていた職場を退職させていただき、4月からフリーの身になって、半月以上が経ちました。自分としてはそれなりの気概を持って退職したつもりですが、やはり時間が空いてしまうとぼんやりとしてしまうことも多く、ゆったりとした日々を過ごしています。

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岡山方面から尾道方面への鈍行列車 尾道駅近くにて



 ただただ、何をおいてもしたかった旅行。オーストラリアは断念して、青春18きっぷの旅に落ち着きました。我ながら驚きなのですが、ここ数年、少なくとも年一回は二泊三日以上の自分の旅を企画していたのに、去年は一度も旅をしなかったものだから、旅の日程を考えるのは、一昨年カラファテに行って以来。どういう行程なら無理なく行けるのかとあれこれと悩んでいるときに、こんぴら歌舞伎のチケット情報を告げるメールを目にし、販売状況を確認したところ、なんとなんと青春18きっぷが使える4月10日の午前の部のチケットが一枚だけ残っていたのでした。

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こんぴら歌舞伎の歴代ポスター 金丸座前にて




そこから逆算して、姫路城、尾道、倉敷、琴平をまわる3泊4日旅を最終決定したのが春分の日あたり。出発前夜3泊分の旅の準備をしながら、すっかりこういう旅支度という感覚を忘れていたことに改めて感じ入ったものでした。

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JR琴平駅改札口




 青春18きっぷは最大5回分使えるものだから、余った1回分をどうしようかと思っていたのですが、これから先の自分の行く末を見守っていただこうと、中国四国の旅の二日前に伊勢神宮参拝を決行しました。

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伊勢内宮のお庭に咲く桜



というわけで、伊勢と名古屋の往復、名古屋から姫路経由で岡山まで、岡山起点で尾道と倉敷散策、岡山起点で倉敷と琴平散策、琴平泊でこんぴら歌舞伎を見て、琴平から名古屋までと、きっぷを使い切りました。この旅で思いがけずにしみじみ日本を感じたのは「桜」でした。

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倉敷阿智神社 山門あたりから



川沿いの桜並木、学校や会社や公園に植えられた桜、山桜などなど、いたるところに桜が咲いているのが車窓から眺められます。桜の薄桃色というのは、春のこの時期以外には見ることができません。この時期でなければ、単なる「樹木」として見過ごしてしまう木々を「桜」と認識させるその桜の花のパワーには畏れさえ感じます。こういう「桜」の一念、あるいは春は桜を見ることこそ幸いだと感じる日本人の心根というのは新幹線とか飛行機とかでは決して味わえなかっただろうと思われます。

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姫路城天守閣から御城下を眺めて



姫路城の桜も、まったく期待していなかっただけに、出逢ったときの感動はひとしおでした。前日までは、天気予報を見ながら旅の初日の雨を幸先が悪いと思っていたのですが、雨だったからこそ訪れる人が少なかったという幸運に恵まれたと感じられる旅でした。

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JR琴平駅



 今時の青春18きっぷというのは、十九二十歳の若者世代ではなく、退職後の第二の青春世代がターゲットとなっているのだということを確信した旅でもありました。すでに春休みが終わった時期でもあり、本来の若者は学校に行かねばならないという足枷があるので、若者を見ることがないのは当然といえば当然とも言えますが、それにしてもお元気なのは、年を重ねた女性のみなさん。私もその中に含まれるのかもしれませんが。

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金丸座前 こんぴら歌舞伎垂れ幕



 伊勢神宮の帰りには、そこそこ年配の女性お二人といっしょになったのですが、3月にお友達と岡山に行って来て、きっぷが余ったから、岐阜の各務原を6時に出発して伊勢神宮にお参りしてきたとのこと。「母が八十を超してからは外に出るのもおっくうがって、いっしょにどこか行こうと誘ってもなかなか出たがらない」と私が言うと、小柄な女性のほうが「え、私、八十ですよ」とおっしゃる。携帯電話で孫とメールのやりとりをし、「パソコンも習ったんだけどねえ、私がやってると、孫が横から手を出してきて、こうすればいいってあっという間にやっちゃうもんで、なかなかおぼわらんの。その孫が、おばあちゃん、駅まで車で送ってって甘えてくるんだわねえ」と笑い、「頭は呆けとるけど、脚は丈夫だで、体が元気なうちに、せいぜい行けるところに行っとかんと」だそうな。「お伊勢さんはいいねえ。夏にもまた来ないかんねえ。あとはどこに行こうかねえ」とお隣と次の旅の相談をされる。

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倉敷 阿智神社前の酒屋さん



 岡山から尾道の電車でお隣に座られたのは、黒いリュックに薄紫のキャップ、薄手のウィンドブレーカーにジーンズ姿のこれまた70代といわれる女性。いつも18きっぷでの旅を楽しみにしていて、大阪の友に会いにいったこと、忠海の景色の明媚だったことなど、旅のできる幸せを生き生きと語られ、今回は残り一回分を尾道への往復に充てられたとのこと。以前は夜行を使って新潟まで行ったこともあるのだと、ミニ時刻表をリュックから取り出して、ほらこんなにして、最終時間をチェックしてメモして貼ってあるのよと見せてくださる。私よりもずっと若々しく、生気の漲るハリのある声と顔で、「友達がパソコンで調べてくれたけど、時刻表と違ってたのね。やっぱり時刻表でチェックしないと不安なのよ」とおっしゃる。

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尾道 志賀直哉旧居前の暗夜行路石碑



 私自身、一昔前までは時刻表で発着時刻を確認して、路線によってページを繰りながら、線を引いたりしてたなあと思いながら、今回、乗換時刻も駅もすべてスマートフォンで検索して旅程を決めていたものだから、時刻表チェック発言は心に響いたものでした。指先一つで簡単に乗り換え時間がわかってしまうのは便利だけど、この機械の表示をどこまで信頼してもいいものなのかと、彼女の言葉で思い知らされ、こうやって、人間は考える力を失っていくのだと改めて思ったことでした。

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尾道のお寺の桜 ここでアメリカ人男性と遭遇



 尾道では、日本に来る前には台湾にしばらく滞在していたというアメリカ人男性と道連れになる。二人連れの台湾人女性とも話をしていた彼は、台湾もよかったけれど、日本のほうがいい、英語教師でもしてしばらく滞在したいとこっそりと言われた。大したことを話したわけでもないのだけれど、相槌をうとうとすると「Yeah」ではなく、「Sí」が口をついて出て来るものだから、彼はそのたびに「何?」という表情で私を見た。

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尾道で出逢った人慣れしすぎていた猫さま



で、寺の石碑に第12代横綱の陣幕久五郎の手形があるのを説明しようとして、自分では「Sumo wrestler」と言っているつもりなのに、何度言いかえても彼には「sumo restaurant」と聞こえるようで、「レストランがどうかしたのか」と聞き返された。「レッストゥラー」的な発音をしたことで何とかわかってもらえたけれど、「手形」を目にしたところで日本人ならまず相撲取りを連想する(というのは私世代までだろうか)だろうに、そういう発想がないところに発音の難しさだけではなく、文化の違いに気づかされる。

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こんぴら歌舞伎はこんないい席で見られた



 つれあいのある旅は、それはそれで楽しいものだけれど、同行者との兼ね合いもあり、目がどうしても内側を向いてしまう。一人で旅すると、自分の心と向き合いつつも、思わぬところでふわっと外側からの風を受け、あるいはこちらから風を送ることがあったりする。今回みたいに、こんぴら歌舞伎の時間と帰りの電車くらいしか時間の制約がなくて、あとは行き当たりばったりで、どこに行こうが何をしようが風まかせというような旅だと、一人で自由気ままに動けることの醍醐味を存分に味わえる。

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こんぴらさんを10倍ズームで撮った



 というわけで、ラーメンと映画の舞台になった坂の多い町ということくらいしか知らなかった尾道で志賀直哉の旧居に遭遇して「暗夜行路」を読む気になったり、林芙美子の像を見つけたり(文学に疎すぎる不届き者の元国語教師)、行かなくてもいいと思っていた倉敷で児島虎次郎記念館を貸し切り状態で見られたりする僥倖もあり、岡山で2日続けて美酒に酔う夕食をとったあとは、こんぴらさんの参道にあるうどん屋のかけうどんで食事をすませたりと、一人気まま旅を満喫いたしました。

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最終日の3時過ぎ 琴平駅からこの電車に乗らないとこの日のうちにうちにたどり着けない


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# by kakakai | 2016-04-20 17:45 | | Trackback | Comments(0)

《多文化共生社会》

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今年の初日の出


今年は暖かい冬だと思っていたら、いきなりの寒波到来があり、でもやっぱりしばらくするとそこそこに暖かく、雪は今のところ名古屋では2回しか見ていません。本当のところ、やはり、大寒辺りは体を突きさすような寒さを感じないことには、どうも春を迎える準備ができないと思うのです。と思っていたら、あっという間に立春が過ぎ、旧暦の新年を迎え、建国記念の日も過ぎてしまいました。まさしく、2月は逃げるですね。今年は、立春のあとに旧暦新年。こういうのは珍しいんじゃないかと思ったら、1年おきくらいにはある当たり前のことらしい。ちょっとしたことでも新しい発見というのは面白いものです。年始の占いで、私の今年のキーワードは「遊」と出たので、ガツガツ働くことなく、こんなちょっとした発見を楽しみつつ、大いに遊んで生きていこうと目論んでいます。20年近く前、よく当たるという占い師に、あなたはお金に困ることはないと言われたことをきっちりと覚えていて、まあのんきに構えています。私が子どものころなら定年を迎える年。隠居して、自分の好きなように生きる年頃なのだと決め込んでいます。

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先号の最後に、飛行機に乗ってどこかに行きたいと書いたのですが、今のところ第一候補はオーストラリア。四半世紀も前に自費出版した「オーストラリアだより」を最近知り合った人に配りまくって当時のことを思い出したり、オーストラリアの多文化主義についての話を聞く機会があったりしたものだから、28年前にホームステイをした小学校教師とコンタクトが取れるかなと、facebookで名前を検索したらヒット。ずっと音信不通だったのだけれど思い切ってメッセージを送ったら、彼女もちゃんと覚えていてくれて、返事が来た。調子に乗って会いにいってもいいかと書いたら、「もちろん」と返ってきたからには、行かなくちゃという気分です。ところで、彼女へのメッセージは、英語で書くのだけれど、油断すると、頭の中で日本語から最初に変換される言語が英語ではなくスペイン語になっている。確かにここのところ、英語は週に1回「ニュースで英会話」をテレビで見るか見ないかで、スペイン語のほうはほぼ毎日聞いているというのがあるかもしれないけれど、それにしても語彙数とか使用履歴は圧倒的に英語の方が多いというのに、外国語に変換しようという時に最初にホワンと浮かぶ言語がスペイン語になってきたというのに我ながらびっくりなのでした。

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ブエノスアイレスの朝さんコース


 ラジオで聞いている「まいにちスペイン語 応用編」は、一昨年、アルゼンチンにいたときに朝さんしながらiphoneで聞いていたのと同じ内容で、テーマ音楽と講師の声が聞こえてくると、心も体もふわっと時空を超えてブエノスアイレスの朝さんコースに行ってしまい、公園で仲良くなった人たち(金髪の人もいれば、黒人の人もいて、近々コロンビアに帰るという人もいた)と「ブエン、ディア」と挨拶を交わしていたことを思い出してしまいます。
 1月に、今年初めて開催された「なごや多文化共生まちづくり会議」というのに参加したときに、「多文化共生」という言葉の持つ感覚について、改めていろいろと思いを巡らしたのでした。多文化共生という言葉に最初に意識的に出逢ったのは、知的障害者関係の講演会のテーマだった気がします。そのときの講師の方が、これはもともとは外国人支援関係での用語だと言われていました。それと前後して、視覚障害関係のワークショップで、「ダイバーシティ(多様性)」という言葉にも出逢ったのでした。こういう出逢い方をしたうえに、知的障害児・者の施設で長く勤めていたこともあって、私にとって多文化共生といえば、障害者との共生社会がぶわーっと広がるのでした。でも、一般的に行政やメディアなどで「多文化共生」といったときの「多文化」というのは民族の違いとか肌の色の違いとか宗教の違いとか思想の違いを表していて、その違いを認め合い、ひっくるめた社会が、多文化社会、多様性社会と呼ばれています。

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熱田さん初詣


 私が初めて海外に行ったのは中学2年の夏休み。新聞社が主催した中学生のための海外体験プログラムみたいなもので、カナダのバンクーバーに一週間くらい滞在したのでした。現地の子どもたちとの交流会とかもあり、そこに日本人のような顔をしている子がいるということに、私は心底驚いたのを覚えています。そして、私がごくごく当たり前の感覚で日本語で話しかけたのに、ちんぷんかんぷんという表情をされ、彼らが日本語を話さず、自然な調子で英語(たぶん)で会話しているのにも、心底驚いたのでした。心底です。なんせ世間知らずの中2ですから。
 それから15年を経て、20代後半の9カ月をオーストラリアで過ごし、現地の小学校でクラスの半分くらいが他国の出身であることに、当時の私はやっぱり心底驚いたわけです。さらにまた15年を経て、50代前半の9カ月をアルゼンチンで過ごし、日系社会の小学校では日系以外(ヨーロッパ系、中国系)の子どもたちも含めて、日本の童謡を歌ったり、日本の童話の読み聞かせがされているのをまのあたりにしたのでした。
 オーストラリアでもアルゼンチンでも感じたことは、「違う」ということが当たり前の世界であるということでした。逆に、日本というのは「同じ」ということが当たり前の世界であるように思うのです。幼稚園の時から先生たちも含めて無意識に「みんなといっしょ」意識が脳内機能にきっちりと埋め込まれてしまう。「ほら、みんなとちがうでしょ。こうしたらいっしょになるよ」というような声かけが、ごくごく自然に口をついて出てくる。そういうことをくり返し言われたり、自分でも言ったりしているうちに「みんないっしょ」精神が身についていく。

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名古屋港の夕日


 「みんなといっしょがいいよね」感覚が当たり前で育ってきた子どもたちが、実は世の中って「違う」ことの方が多いんだよと学校を出てから知るというのはとてもショッキングなことなんじゃないだろうか。学校の先生っていうのは、「学校」という世界しか知らない人が多いから「みんないっしょが居心地いい」と無意識に思っているんじゃないかしら。そんな教え方を伝統的にくり返したりしているのが学校の先生だと思う反面、「違う」ということを教えられるのも教師しかいないのだということも、感じています。けれど、最終的に自分の生き方を決めるのは自分でしかないということも教師は教えなくてはならない。私、教師を辞めてよかったとつくづく思う。
 日本という国は「自分は正真正銘の日本人だ」と思っている人が圧倒的多数を占めている国で、だから「みんな同じで安心できる。ちょっとくらいの違いは目をつぶってしまおう」という感覚に普通になじんでいる。「多文化共生」というのは、「みんな違ってみんないい」というのとも違う。いろんな国の人が赤ちゃんも子どもも障害者も労働者も高齢者も当たり前に日本で暮らし始めていることに、目をつぶってはいられない。

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ふるさとの空


 今や日本でも、外国につながる子どもたちが、児童数の6割を占めるという小学校が存在する時代になりました。「和食」は世界文化遺産に登録され、日本の「まんが」は世界中で愛読されています。外国で暮らす日本人は、彼の地での生活に少しでも慣れようと、多少の不便には目をつぶって生活しているのかもしれない。日本で暮らす外国人は、不便を感じながらも、これが生活なんだと割り切っているのかもしれない。「多文化共生」という言葉遣いそのものが、本当のところどういうことなんだろうというような気分になってきています。
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# by kakakai | 2016-02-20 20:16 | Watakushi通信 | Trackback | Comments(0)

カズオイシグロ

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去年の秋ごろ、人生観とか、創作概念とかを語るカズオイシグロの講義をEテレで見て、彼の最新作を読みたくなって、購入しました。彼の本は数年前に「わたしを離さないで」を最初に読んでそれから「日の名残り」を読んだ。なんていうか、彼の文体というのはくせになって、一つ読むと、また読みたくなる。正確に言えば、彼の文体ではなく、彼の英語が翻訳された状態の文体なのだけれど。

「忘れられた巨人」は彼の最新作で、舞台は中世のころと思われるイギリス。ブリトン人の老夫婦、サクソン人の戦士、アーサー王の騎士などが登場する。村全体を覆っている「空気」が彼らの記憶をぼんやりと溶かしてしまっているらしい。そういう状態の中で、遠い街で暮らす息子に会いに行くことを思い立った老夫婦の旅とともに物語は進行していく。記憶は失われたままではなく、ときおり忘れられていたできごとを思い出す。遠い昔の記憶がもやがかかったような状態であったとしても、その人たちの中に、それ以後にできた新しい記憶が積み重なっていく。記憶は決してなくならない。最後の最後まで、老夫婦の関係は記憶のない過去のあやふやさを払拭しきれないでいるのだけれど、少しずつ少しずつ見えてくる二人の過去の記憶が、二人の未来をどう誘うのか。過去の記憶のありようによって、未来が左右されるという時の流れのパラドックス。

歴史というのは、「今」の思想によって、まったく違う見方がされるものだということも、老騎士や戦士のちょっとしたセリフの中からうかがえる。「今」が「過去」を塗り替えることができ、塗り替えられた過去を使って未来を作ることも可能だということ。


ここまでで3編の作品を読んで、カズオイシグロは両親の母国である日本を描かずに、イギリスを舞台とすることで自己のアイデンティティを表現していると思っていたら、最初の2作品は舞台が日本だったということを知り、それなら、日本を舞台にしたという作品も読んでみたいと思って手にしたのが、「浮世の画家」。この作品も「今」の目で「過去」を巧みに操作しながら、「過去」から見た未来であるところの「今」を再構築している。その過去と未来というのが、戦前と戦後という、日本にとってはコペルニクス的転回を意味する時代だから、語り手である「画家」はかなり慎重な言葉遣いをしている。過去の事実を包み隠さず話すことさえできない、日本のある時代の出来事で、その中でも、語り手の孫との会話はとても正直に、日本的男女感を描いていたりもする。彼の中で「日本」という国はどういう意味を持っているのだろう。もし、彼が日本語でこの作品を描いたとしたら、どんなふうに綴るのだろうと、思う。

今、「べつの言葉で」(ジュンパ・ラヒリ 新潮社)というベンガル語を母語とするロンドン生まれの作家が不慣れなイタリア語で書いた文章を日本人が日本語に翻訳した本を読んでいる。毎日新聞で連載されていた「マチネの終わりに」(平野啓一郎)は自分が思っていた過去の事実とは違う過去の真実を知ったあとの今を未来として描いていた。「悪声」(いしいしんじ)は時空を超えて、「言葉」と「声」が入り乱れる世界を描いていた。「動物記」(高橋源一郎)では、動物が人間の言葉をしゃべっていた!

しばらく、こうしたことを書かずにいたけれど、やはり書きたい気持ちが募ってきました。どんな形で書いていくのかは、まだ見えてこないけれど。今年の私に与えられた文字は「遊」。この文字を真に受けて、いろいろ遊びたいと思います。
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# by kakakai | 2016-02-07 17:41 | | Trackback | Comments(0)

禁じられた歌声

b0090887_0514575.jpg12月に「美術館を手玉にとった男」(このドキュメンタリーも面白かった)を見たときの予告編で、この作品が紹介されていて、シリアスなドラマだろうと思われるのに、情景の美しさが心にとまって、「これ、見たい」と思ったのでした。
期待以上の作品世界。アフリカの砂漠地帯のある地域での物語ではあるけれど、ある日突然、自分たちの暮らしとはまったく違う次元でものごとをとらえる人たちがやってきて、支配権を持つようになり、もともと暮らしていた人たちの自由が奪われるという事態は、今、至るところで起きているように思うのです。
それを、美しい砂漠を背景にして、もともとそこに暮らしていた人々が、自分たちの暮らしを自分たちらしく生きていくその姿は、力強く感じられます。自分たちらしさをなんとしても貫こうとする人たちがそこに暮らしている。
中心となる登場人物は砂漠の中で暮らす父母娘の3人家族。だけれど、その家族の顛末だけが描かれているわけではなく、まちの中で起こるさまざまな事件がエピソードとして盛り込まれます。さらにそこに美しい砂漠の風景が映し出される。美しいのだけれど、砂漠での生活というのはおそらく過酷なものであるにちがいなく、そこで暮らす人たちは日本人には考えられないある種の緊張感をもって生活をしていると思うのです。その緊張感を和らげる歌もスポーツも取り上げられた人たちのストレス。そして、常に見張られている生活。それでも、人は寝て起きて食べて生を営む。同じアラーの神を信じるものであるはずなのに、支配者と被支配者が存在する現実。

砂漠のサラサラとした砂の深さ、思うように走れない、思うように体を動かすことのできない世界。

まったく別次元のことではあるけれど、私は、この映画を見ながら、明治維新の時代の日本を思い起こしていました。江戸から明治に移るときの圧倒的な文化の大転換。当時の人たちの緊張感はどんなものだったのだろう。夏目漱石の時代。
そして、さらに翻って、今の日本。今の私たちにあの緊張した空気を普通に吸って生活することができるのだろうかと思ってしまった。今の状況を考えると、いつ、そういう事態になってもおかしくないと思えるのだけれど、私にはそれだけの覚悟ができているのかと。

ただ生きるということに、覚悟がいる生活ができているのかと。
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# by kakakai | 2016-01-26 01:34 | | Trackback | Comments(0)

あけましておめでとうございます〜春の海ひねもすのたりのたりかな〜

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あけましておめでとうございます。
今年も無事に年が明けました。
去年は、なんだか自分を追い込んでしまった1年だったように思います。
今年はあせらず欲張らずじっくり歩んでいきたいと思います。

年賀状の写真は、数年前の宮古島でのシュノーケリングしたときのもの。
去年は飛行機にも乗らず、海にも行けずでしたので、今年は飛行機も海も楽しみたいと思っています。
春をテーマにしたひと言、ここ15年ほど毎年いろいろ自分で考えてきましたが、今年は与謝蕪村の句を拝借。
暮れも押し迫った30日に、パソコンの壁紙になっていた写真を年賀状写真にしようと決め、レイアウトを考え、どんな言葉を入れようかと考えているときに、チョウチョウウオの姿を見ながら、ああ、まさにこの句が私の心境にもぴったりだわ。と思ったのでした。

「春の海ひねもすのたりのたりかな」

今年はゆったり、生きていこうと思います。
よろしくお願いいたします。
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# by kakakai | 2016-01-01 01:08 | プロフィール | Trackback | Comments(0)